帝人事件 (昭和9年4月18日)斉藤内閣は安定した政権運営をしていました。
たしかに 「国際連盟」 からは脱退しちゃいましたけど、
逆に 「連盟」 を利用して満州を奪還しようとしてた中国は打つ手がなくなり、
日本との停戦協定 (塘沽協定) にサイン。
ちゃっかり平和を勝ち取っていました。
国内では高橋蔵相による 「インフレ祭り」 が効を奏し、世界恐慌から脱却。
円安のおかげで世界市場を席巻し、
ついにイギリスを抜いて、世界第1位の綿製品輸出国になっちゃいます。
「ソーシャル・ダンピングだー」
イギリスは文句を言いますが、知ったこっちゃありません。w
しかし順調に見えた 「斉藤内閣」 をいきなりブッ潰す事件が発生します。
それが 「帝人事件」。
昭和9年1月17日から時事新報で 「番町会を暴く」 という連載記事が始まり、
財界(番町会)と政府要人との癒着が、おもしろおかしく報道されます。
その内容はこんな感じ。
大正時代に急成長した鈴木商店という商社がありました。
鈴木商店は台湾銀行(政府系銀行)から多額の融資を受けてまして、
その資金を使って事業拡大に乗り出したものの、放漫経営により大赤字に転落します。
で。鈴木商店の子会社に 「帝国人造絹糸製造株式会社」(帝人) がありまして、
昭和初期の 「金融恐慌」 によって鈴木商店が倒産しちゃったとき。
台湾銀行は鈴木商店の持っていた 「帝人株」 を引き取ります。
ところがその後。科学技術が進んで 「人工絹」 がブームとなり、帝人は優良企業に成長。
これで台湾銀行が持っていた 「帝人株」 が値上がりする可能性が出てきたので、
財界グループ 「番町会」 が政府要人に働きかけて、
台湾銀行から大量の 「帝人株」 をゲットします。
その瞬間に帝人が大規模な増資を行ったため、帝人株がはねあがり、
「番町会」 の連中はボロ儲け。
儲けた見返りとして、番町会は政界に多額のワイロをバラ撒いたのでした。

・・・なんか 「いただきストリート」 でありそうな話。
要するにインサイダー取引です。
かつての 「リクルート事件」 を彷彿とさせますね。
「時事新報」 はデタラメな記事を書くコトで有名だったのですが、
なぜか 「検察」 はこの記事を重視し、徹底的な捜査を開始します。
昭和9年4月18日。まず帝人社長が贈賄容疑で逮捕。
その後。大蔵省に捜査の手が伸びて、次官をはじめとする大蔵官僚も次々と逮捕。
それから番町会のメンバー達や、台湾銀行頭取も逮捕され、
ついには斉藤内閣の閣僚(商工相・鉄道相)までもが逮捕されてしまいます。
こうなってしまってはもはや斉藤内閣が政権を続けるのはムリ。
帝人事件の捜査が始まってわずか3ヶ月後の7月8日。
斉藤内閣は総辞職に追い込まれたのでした。
ちなみにこの裁判。3年後の昭和12年に 「全員無罪」 で結審します。
しかも裁判長はこう言ってます。
「証拠不十分による無罪ではない。全く犯罪の事実が存在しなかったためである」
つまり完全にでっち上げの 「冤罪事件」。
やっぱり 「時事新報」 の記事は全くのデタラメでした。
じゃあこの検察による冤罪捜査の黒幕は誰だったのか・・・・?
それは 「平沼騏一郎」(枢密院副議長) だと言われています。
ちょうどこの頃。枢密院議長が病気のため辞任していました。
普通にいけば後任は 「副議長」 の平沼が昇格するのですが、
平沼が大嫌いな西園寺公望が横やりを入れ、別の人物を議長にしちゃいます。
激怒した平沼は斉藤内閣の倒閣を決意。
平沼はかつて 「大審院長」 を務めていた法曹界のボスであり、
その関係で 「検察」 に子分が大勢いまして、
彼らに命じてこの 「帝人スキャンダル」 をでっち上げたのでした。
平沼のせいで内閣総辞職に追い込まれた斉藤首相。
「絶対に平沼だけは首相にさせない!」
もともと平沼嫌いの西園寺も全く同意見。
「平沼のような神がかりを天皇のお側に近づけてはいけない」
そこで斉藤の後輩で同じ海軍出身の 「岡田啓介」 を後任の首相に奏薦。
強力な首相候補の一人だった 「平沼騏一郎」 は悔しがります。
岡田首相は斉藤と同じく穏健な常識人。
斉藤内閣の路線がそのまま継承されるコトは明らかでした。
しかし組閣する段階になって 「政友会」 が閣僚を送り込むのを拒否。
野党に下ってしまいます。
「民政党」 は閣僚を送り込んで与党に残ってくれたのですが、
帝国議会で圧倒的多数を持つ 「政友会」 を敵に回したのは、かなりやっかい。
少数与党となった岡田内閣は、帝国議会でかなりの苦戦を強いられるコトとなります。
斉藤実第30代首相。
海軍出身だが穏健派の常識人。
この激動期の中では珍しく安定した政権運営を行った。
親英米派で、英語力は歴代首相の中でも抜群。
記者会見では 「うむ」 としか言わないので、記者は苦労したらしい。