190年
1月:袁紹挙兵。これを見た関東諸侯が一斉に反董卓挙兵。
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:董卓は事態の平和的解決のため、使者として胡母班を派遣するが惨殺される。
:胡母班惨殺の報復として、董卓は洛陽にいる袁一族を処刑。
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:王匡(河内郡太守)が董卓軍によって大敗。犠牲者第1号。(河陽津の戦い)
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:董卓、少帝を殺害して首都機能を長安へ移動。
2月:曹操と鮑信が洛陽へ向けて進軍。徐栄軍に遭遇して大敗。(汴水の戦い)
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:孫堅が南陽郡へ進駐し、王叡(荊州刺史)・張咨(南陽郡太守)を殺害。
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3月:孫堅が袁術に南陽郡を譲渡して傘下に入る。そのまま反董卓連合に参加。
5月:劉岱(兗州刺史)が橋瑁(東郡太守)を殺害。
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6月:董卓が五銖銭を廃止。大インフレが起きる。
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11月:袁紹、劉虞を皇帝に即位させようと計画するが、曹操・袁術に拒否される。
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「反董卓連合軍」と聞くと、みんなで一致団結して董卓を倒すために戦った・・・
・・・・・・・っていうイメージがありますが、
実際に董卓軍と戦ったのは、王匡・曹操・孫堅の3人だけでした。
更に、王匡と曹操は序盤で董卓軍によって瞬殺されてしまうので、
まともに董卓軍と戦ったのは「孫堅」だけだった。ということになります。
その「孫堅」は、反董卓連合軍の中でも異質な存在でした。
孫堅は単なる「長沙郡太守」だったのですが、
越権行為をくり返して荊州の大部分を手に入れてしまいます。
特に、荊州刺史と南陽郡太守を殺害して「南陽郡」を奪い取った行為は、
王朝に対する反逆そのもの。本来なら討伐軍が差し向けられています。
しかし、孫堅は袁術に南陽郡を割譲してその傘下に加わり、
反董卓連合軍に参加する事で、自分の反逆行為を上手くカモフラージュしたのでした。
それでは、それ以外の「連合軍参加者たち」は何をしていたのか。と言うと、
実は何もしていませんでした。
序盤で王匡・曹操が瞬殺されたために、ビビってしまったワケです。
特に、連合軍の中核であった兗州の諸侯たちは酷いものでして、
たちまち仲間割れをおこして、劉岱(兗州刺史)が橋瑁(東郡太守)を殺害する。
という事態を引き起こし、勝手に崩壊してしまいます。
盟主たる「袁紹」も同様でして、洛陽へ進撃しようとはせず、
大義名分を得るために、劉虞を皇帝に即位させる計画に夢中になってしまいます。
そんなこんなで、グダグダしているうちに、
孫堅に「洛陽占領」という成果を奪われてしまったのでした。