真夏のゴルフは拷問に近いものがあります。
昨日は病院のお医者さんと一緒だったのですが、さすが上手いわ。
ま。そんなこんなで今日は疲れました。
さて。正史の人物編のつづき。
魏書第8巻 「二公孫陶四張伝」 に登場する4人目の群雄は 「公孫度」です。
漢帝国の北の最果て 「幽州」。
幽州を支配した群雄といえば、公孫瓚が連想されますが、
公孫瓚の領域はあくまでも 「
幽州」 の西半分。
「遼西郡」 より西のエリアです。
「遼東郡」 から東を支配していたのが、「遼東郡太守」 の公孫度。
公孫瓚と同じ名字ですけど、2人に血縁関係はありません。全くの赤の他人
公孫度は幽州の東半分に 「独立王国」 を築いていました。
公孫度が漢王朝から独立状態であり得たのは、
あまりにも辺境すぎるので、みんな無視していたから。
例の
地図だと1国。
人口も少なく、土地の価値も低い 「ド辺境」。
どうにも魅力がなさすぎる場所なのです。
幽州を支配した群雄たち。劉虞・公孫瓚・袁紹・曹操。
彼らはみんな公孫度が好き勝手やってるのを黙認していました。
「一応オレに従う態度を見せるなら、遼東郡には干渉しない」
ま。こんな辺境まで直接支配するのが、面倒くさかったからでしょうな。
でもそのおかげで、公孫度は独立王国の国王として君臨できたのでした。
これは 「交州」 の士燮と同じパターン。
考えようによっては、「辺境」 も良いモノなのです。
公孫度は 「遼東郡」 の出身。超田舎者。
それでも次第に昇進して、「冀州刺史」 にまで出世するのですが、
あまりにも田舎者だったために、彼をバカにする者も多く、
讒言を受けて罷免されてしまいます。
これは公孫度にとってショックな事件だったでしょう。
しかし。意外な人物が彼を引き立ててくれます。それが 「徐栄」。
董卓軍の武将として、曹操をフルボッコにしたあの 「徐栄」 です。
徐栄も遼東郡の出身だったので、
同郷のよしみとして公孫度を 「遼東郡太守」 に推薦してくれたのでした。
こうして董卓政権から 「遼東郡太守」 に任命された公孫度でしたが、
どうも遼東郡の役人たちは、公孫度をナメていたようです。
ちょうど橋下府知事が、府職員や市長たちや官僚たちにナメられてたような感じ。
これに対して公孫度は徹底抗戦の態度で臨みます。
自分をバカにするような官僚は、片っ端から逮捕して処刑。
地元豪族や名家であろうと、冷淡な態度をとっているヤツは全て処刑。
こうして絶滅した家は100軒を越えたので、
遼東郡の役人たちは震え上がり、公孫度の独裁体制が築かれたのでした。
やっぱり始めにガツンと一発殴っておくのは、重要なのです。
190年。「反董卓連合」 が挙兵して、中国全土が混乱状態に陥ると、
公孫度は配下たちに話しています。
「漢の命運は尽きようとしている。今こそ諸君らと共に王の位を狙うべきだ」
誰も自分に注目しないのをいい事に、好き勝手をやり始めます。
遼東郡を勝手に分割して 「遼西中遼郡」 を創設したり、
海を渡って青州の先っちょを占領し、
そこを 「営州」 と名づけて、勝手に 「営州刺史」 を任命したり、
自分が支配する幽州東部を 「平州」 と名づけて、「平州牧」 を自称したり・・・・。
いくら何でも、これはやりすぎでしょう。
でも公孫度に干渉する群雄がいないので、ますます調子に乗ります。
彼が行う儀式は、皇帝と全く同じ形式で行われましたし、
羽飾りのついた 「蓋車」(皇帝専用車) を作って、乗り回したり、
さらに 「羽林騎」(皇帝近衛兵) を組織して、自分を護衛させていました。
すでに皇帝の気分だったのかもしれません。
そこで今回は、調子に乗ってる公孫度のエピソード。
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献帝を擁立した曹操は、北方の辺境にいる公孫度を懐柔しようとした。
そこで彼を 「武威将軍」 に任命し、「永寧郷侯」 に取り立てた。
しかし公孫度は言った。
「オレは遼東の王だ。何が永寧郷侯だ」
そして印綬を武器庫にしまい込んでしまった。 [魏書]
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うーん。図に乗ってますね。
「井の中の蛙」 「鶏口牛後」・・・。
こんな諺が良く似合う男。それが公孫度なのです。
公孫度の 「遼東王国」 は、公孫康・公孫淵へと引き継がれます。
2代目の公孫康は、領国へ逃げてきた袁尚・袁熙を処刑し、
曹操と上手く付き合ったのですが、
3代目の公孫淵は、調子に乗りすぎて 「魏」 から独立して 「燕」 を建国。
それで司馬懿の攻撃を受け、あっけなく滅亡。
公孫度から数えて50年で、遼東王国は消えたのでした。