正史の人物編。第8巻 「二公孫陶四張伝」 は今回で最後。
7人目に登場する群雄は 「張魯」 です。
「演義」 だと張魯が登場するのは後半になってから。
道教集団 「五斗米道」 の教祖として 「
漢中郡」 に君臨し、
独自の道教システムを使って領国を支配した異色な男として描かれます。
例の
地図だと45国。
「五斗米道」 を作った初代教祖は祖父の 「張陵」。
2代目が父の 「張衡」。
張衡の後を継いで、3代目の教祖となったのが 「張魯」。
・・・・と、このように 「演義」 だと説明されます。
じゃあ。道教教団を使って 「漢中郡」 を占領したのは、初代教祖の 「張陵」 なのか?
というと、それは違います。
「張陵」・「張衡」 が道教を人々に伝えていたのは事実らしいのですが、
その規模は小さいもので、町の寺子屋って程度でした。
たしかに彼らは益州に住んでいましたが、ただそれだけです。
別に大した勢力じゃありません。
むしろその頃。益州で爆発的な人気があったのは
「張脩」 が作った 「シャーマン教団」。
ちなみにこの 「張脩」 って人は、張陵や張衡とは全く血縁関係はありません。
張脩の 「シャーマン教団」 の特徴は、祈祷を行って病気を治すコト。
そして病気が治ったら、代金は 「お米」 で支払われました。
そのため張脩の 「シャーマン教団」 は、「五斗米道」 と呼ばれました。
つまり。「五斗米道」 を作ったのは、張魯の祖父 「張陵」 ではなく、
「張脩」 っていう全然別の人だった。・・・ってコトになります。
189年。「益州牧」 として劉焉が赴任してきます。
この劉焉がなかなかの 「クセ者」。
金をバラまいたり、「牧」 の権限を使ったりして、
益州の地元豪族を手なづけ、益州に独立王国を作ろうとします。
この劉焉に目をつけたのが、張魯の母。(張衡の未亡人)
張魯の母はものすごく美人だったらしく、さっそく劉焉に取り入ります。
いつの時代も美人はトクなのです。
劉焉は 「張魯の母」 に夢中となり、張魯を 「督義司馬」 に任命。
こうして張魯は、劉焉の配下となったのでした。
また。劉焉は 「五斗米道」 の教祖 「張脩」 にも、ちゃっかりと手を回しており、
彼を 「別部司馬」 に任命して、配下とするコトに成功します。
この辺はさすが劉焉。
191年。劉焉は 「漢中郡」 を狙います。
漢中郡太守は 「蘇固」 という人だったのですが、彼は劉焉に反抗していました。
そこで劉焉は、張魯と張脩に兵を与えて 「漢中郡」 へ侵攻させます。
蘇固を討ち取ったのは、張脩でした。
張脩が率いていた教団は、かなり強大化しており、
この 「教団」 の実力は侮れないモノがありました。
このままでは、張脩が 「漢中郡」 で独立するのは目に見えていました。
しかし。ここで張魯が先手を打ちます。
張魯は張脩を暗殺し、彼の教団を乗っ取ってしまったのでした。
そして今までの 「五斗米道」 のやり方を改革し、
「ニュー五斗米道」 の教祖として、漢中郡を占領したのでした。
この張魯の行動を劉焉は黙認。
・・・っていうか、このシナリオを書いたのが劉焉。
劉焉は 「張脩よりも張魯の方が信頼できる」 と思ったのでしょう。
しかし劉焉が死んで、「劉璋」 の時代になると、
張魯は劉璋の言うコトを聞かなくなります。
それに怒った劉璋が、張魯の家族を皆殺しにしてしまったので、
張魯は 「漢中郡」 で完全に独立してしまったのでした。
張魯は 「五斗米道」 の教祖として、漢中郡に君臨するのですが、
215年。曹操に降伏します。
曹操は 「青州黄巾党」 の力で台頭した。という経緯があるので、
同じ「道教教団」である 「五斗米道」 も格別の保護を受けます。
張魯は 「鎮南将軍」・「閬内侯」 に封じられ、10000戸を領有。
これはトップクラスの待遇です。
こうして張魯は完全な 「勝ち組」 として生涯を終えました。
ちなみに 「五斗米道」 は、後に 「正一教」 として大成されます。
「正一教」 は道教の2大教団の1つとして、現在に至っており、
現在の教祖は64代目(張陵から数えて)らしいです。
で。今回は、張魯が漢中郡を支配していた頃のエピソードを。
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住民の中に地中から玉印を見つけて、献上した者がいた。
部下たちは張魯に 「漢寧王」 を名乗るように望んだ。
しかし配下の 「閻圃」 が諌めた。
「漢中の住民は10万を越え、財力は豊か、土地は肥沃、
四方は険固な地勢で守られています。
すでに張魯様は独断で刑罰を断行できる勢力があります。
別に王になるまでもありません。
どうか王を名乗ることなく、厄災を避けるようになさって下さい」
張魯はこの意見に従った。 [魏書]
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張魯が 「漢中郡」 で独立するまでは、
なかなかダーティーな手も使っているのですが、
漢中郡を支配するようになってからは、善政を敷いています。
たしか「演義」だと、欲望に我慢できずに 「漢寧王」 を名乗ったんでしたっけ?