まずは表記に関して。
越後のバーサーカー氏は、もともと 「越後長尾家」 の人。
1561年閏3月。鶴岡八幡宮で山内憲政から家督を譲られるまでは、
彼が率いていた軍勢は 「長尾軍」 と呼ばなければなりません。
また憲政から家督を譲られて以降でも、これまでの記述方式でいけば
「山内謙信」 とするべきでしょう。
また名前に関しても
景虎 → 政虎 → 輝虎 → 謙信
と、けっこう頻繁に変えててややこしい。
そこで彼の場合は 「上杉謙信」 という名前があまりにもポピュラーなので、
最初からこの名前で統一します。
もともと越後守護は 「上杉家」 でした。
上杉家の中でも 「山内家」 の分家の家柄。通称 「越後上杉家」 です。
この 「越後上杉家」 をサポートしていたのが守護代の 「越後長尾家」。
最初の頃はしっかりと守護を支えていたのですが、
長尾為景が守護代になると、彼は謀反を起こして守護の上杉房能を襲撃して殺害。
さらに関東管領の山内顕定が復讐のために越後へ攻め込んでくると、
顕定までも討ち取ってしまったのでした。
まさに下剋上の権化のような男。(この辺の話は「第4部」で)
為景は 「上杉定実」 を新しい守護に擁立。
自分は守護代として越後の実権を握ったのですが、
この強引なやり方に反発する国人も多く、越後は混乱状態に陥ります。
1542年。為景が病死して長男の晴景が守護代となるのですが、
どうも病弱でリーダーシップにも欠けていたようで、
傀儡だったハズの守護 「上杉定実」 が力を取り戻してしまいます。
これで越後の混乱は拍車がかかりました。
そんな混乱状況を収めたのが次男の長尾景虎(謙信)。
謙信は反対勢力を一掃し、越後の混乱を収めます。
「やっぱり謙信さまの方が守護代には相応しいよね」
こういう意見が越後の国人たちの中で圧倒的になり、
1548年。謙信は兄の晴景から家督と守護代を譲られます。
1550年になると守護 「上杉定実」 が病死。
そこで守護代である謙信は京都の将軍・足利義輝に尋ねます。
「うちの守護が死んじゃったんですけど、次の守護は誰にしましょうか?」
で。将軍義輝から返ってきた返事は
「謙信ちゃんに白傘袋と毛氈蔵覆の使用を許可するよ」
白傘袋と毛氈蔵覆は本来ならば 「守護」 しか使えません。
謙信は守護代でありながら、守護に匹敵する権威を得たのでした。
これは幕府が謙信を 「越後国主」 として認めたに等しい行為。
この後も越後では 「反謙信派」 の国人たちが反乱を繰り返すのですが、
あっという間にこれらの反乱も鎮圧。
謙信は22歳の若さで越後統一を成し遂げたのでした。
そして1552年。北条氏康に敗れた山内憲政が越後へ逃げてきます。
「わーん。なんとかしてよー。ドラえもーん」
「しょうがないなー。のび太くんは・・・・」
最初は自ら関東へ出陣せずに、代わりに家臣たちを派兵するコトで対処。
自らは 「川中島」 で信玄とドンパチやってたのですが、
そんなこんなしているうちに関東情勢はタイヘンな事態になっていきます。
上杉家(山内家・扇谷家)の支配下にあった国人たちは、
ほとんどが北条家に従っちゃいまして、抵抗しているのは箕輪城の長野業正ぐらい。
古河公方は 「晴氏」 と嫡男の 「藤氏」 が排除され、
北条家の血をひく 「義氏」 が新たな公方となっており、
それに反発した晴氏・藤氏と、さらに古河公方の筆頭重臣である 「簗田家」 が
北条家に対して抵抗を続けていたものの、彼らの軍事力では話にならず、
さらに結城家は 「義氏」 に味方する有様。
結束すれば北条家に対抗できるハズの北関東諸侯。
「佐竹家」 「宇都宮家」 「小田家」 は足並みが全くそろわず、
佐竹家に反発する 「那須家」 は北条家に味方し、
さらに房総半島に至っては、「里見家」 が北条家に圧迫されて滅亡寸前。
「千葉家」 は完全に北条家の属国状態。
「もはや一刻の猶予もならんっ!」
1560年8月。ついに謙信は自ら8千の兵を率いて関東へ侵攻。
謙信の登場によって関東情勢は一変したのでした。
関東戦国史 「第8部」 はここまでです。
ちなみにこの謙信の関東侵攻は 「越山」 とよばれますが、
越山は以後1574年まで12回に渡って、毎年のように行われます。
「関東の秩序を回復するのだ」
やっぱり謙信といえば、領土欲が薄くて義理堅い男・・・ってイメージ。
本当に 「下剋上の化身」 ともいうべき為景の息子なんでしょうか?
ちょっとDNA鑑定をしてもらいたくなります。
で。次回からの 「第9部」 「第10部」 は、この越山を軸に話を進める予定。
普通 「関東戦国史」 といえば、この辺の話がメインなので、
有名な話が続くと思いますけど、ま。いつものように適当に。
自己満足なブログですから、続きはおそらくまた1年後かなー。(笑)