なんか東京で木枯らし1号が吹いたようで、もうそんな季節なんですか?
そろそろクリスマスツリーとかが飾られそうでコワいです。(早すぎ)
関ヶ原の口火を切ったのは上杉景勝。
1600年2月。越後領主の「堀秀治」が大老筆頭の家康にメールします。
「上杉家に不穏な動きアリ。注意されたし」
そこで家康が上杉家に対して詰問の使者を送ったところ、
返ってきたのが「挑戦状」。(直江状)
「テメーやんのか? かかってこいヤー」
このマイクパフォーマンスに家康ブチキレ。
ま。最終的に勝利しましたから、
全ては戦略のうちで、ワザと挑発に乗ったように評価されてますけど、
おそらくこれは「神君修正」。
実際には本気でブチ切れしたんでしょうな~。w
こうして1600年6月16日。
家康の「上杉討伐」によってキャンペーンがスタート。
そして戦役は9月15日の「関ヶ原」で決着します。
西軍に与した「上杉家」は敗戦国となり、家康に降伏しました。
それからしばらくして、徳川秀忠が景勝の屋敷を訪れます。
恭順したとはいえ、敵だった景勝の屋敷に行くのは危険だ・・・。
こんな空気が流れていたのですが、景勝は言いました。
「秀忠さまにお越しいただくとは光栄の至りです。
しかし我らは田舎者なので、おもてなしのマナーがよく解かりません。
そこで全てを本多正信さまの指図に従うコトに致します」
すると景勝は自分と直江兼続だけを残して、
全ての家臣や召使いたちを屋敷から退去させちゃいます。
そして警備兵や料理番など。全ての人員を本多正信の配下に委ねたのでした。
これにはさすがの正信もビックリ。
「景勝どの・・・何もそこまでなさらなくても・・・」
「我々は徳川様に臣従したのだ。臣従する以上は徹底すべし」
「・・・・・」
「これが上杉家の家風である」
世間の人々はこの話を聞いて、むしろ誉め称えます。
「さすが上杉家は筋が通っていて潔い」
「ブツクサと文句を言わないトコがいいよね~」
「この態度なら、景勝さまのカリスマもブレイクしないよな」
もちろん秀忠は上機嫌。
家康も「さすが上杉だ」と大いに賞賛したのでした。
世間から評価を受けるのは、こういう潔い態度なんでしょう。
終わったあともブツブツと文句を言い続けて、
責任を他人になすりつけようとする態度では、
仲間からも信頼されないし、世間の評価もキビしくなるのは当然でしょうなー。