192年
1月:董卓、李確に主力軍を指揮させて反撃。豫州まで進軍して略奪を繰り返す。
3月:袁紹が公孫瓚を界橋にて撃破する。(界橋の戦い)
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4月:董卓が暗殺される。
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5月:青州黄巾賊が兗州へ乱入。迎撃に出た劉岱(兗州刺史)が戦死。
:兗州の郡太守たちは曹操を「兗州牧」に擁立。
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6月:李確・郭汜・樊稠・張済の4将が長安を占領。李確政権発足。
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:曹操が青州黄巾賊を寿長にて撃破。(寿長の戦い)
:曹操は降伏した青州黄巾賊から精鋭を選び、青州兵を組織する。
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7月:揚州刺史の張温が病死。後任として袁紹は袁遺を、袁術は陳瑀を任命。
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10月:劉表が「荊州牧」になる。
:陶謙が「徐州牧」になる。
11月:長安政府から任命された兗州刺史の金尚が、袁術に匿われる。
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192年。というのは大きなターニングポイントになった年です。
それまで強大なパワーを誇ってきた「孫堅」「公孫瓚」「董卓」の3勢力が
軒並み壊滅的打撃を受け、それに代わって
界橋の戦いで公孫瓚に大勝した「袁紹」と
青州黄巾賊を降して、青州兵を組織した「曹操」が
ようやく台頭を始めます。いよいよ主役の登場です。
一方の「袁術」は、この時期たいした行動を起こしていません。
もし、この時期に袁術が曹操を攻撃していれば、
青州黄巾賊に苦戦していた曹操は、あっけなく壊滅したかもしれませんし、
公孫瓚・黒山賊と連携して袁紹を再び苦境に追い込む事も可能だったハズです。
しかし袁術は、袁紹や曹操が苦戦しているのを、ただ見ているだけでした。
その間に、劉表がいつのまにやら「荊州牧」の地位を手に入れ、
背後から袁術にプレッシャーをかけるようになります。
年が明けて193年になると、ようやく袁術は軍事行動を開始しますが、
それは1年遅かったのでした。