塩はうまくてまずいです
2020-06-28T04:24:41+09:00
hosokawa18272
うそとかほんととかを適当に
Excite Blog
われ奇襲に成功せり
http://hosokawa18.exblog.jp/28599905/
2018-08-21T20:55:00+09:00
2019-11-10T06:44:46+09:00
2018-08-21T20:55:46+09:00
hosokawa18272
12
昭和16年10月16日。またもや近衛首相は全てをブン投げて総辞職。
木戸内大臣は次の首相に「東条陸相」を奏薦しました。
昭和天皇は言ってます。
「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」
10月18日。東条が宮中に参内。
「近衛首相に協力しなかったから、お叱りを受けるのだろう」
って思っていたら、まさかの大命降下。
「9月6日の御前会議の決定を白紙に戻して、対米交渉に努めよ」
昭和天皇に対する忠誠心は人一倍厚い東条首相。
今までの態度をコロッと変えて「日米交渉」に全力を尽くすコトとなります。
しかし。相変わらず参謀本部は「支那からは絶対に撤兵しない!」の一点張り。
じゃあ海軍に「アメリカとは戦争できない」と言ってもらおうと働きかけても、
「そんなコト言えません」のこれまた一点張り。
陸軍の強硬姿勢と海軍の無責任な態度・・・。
ま。自分も近衛首相に対して散々やったコトなので、
ブーメランっていえばその通りなのですが、
改めて「統帥権」の強大さを思い知らされます。
「近衛首相の気持ちがよく解かった・・・」
結局。東条首相は「帝国国策遂行要領」をボツにするコトができず、
・武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は戦争準備を完整す。
・対米交渉が12月1日午前0時までに成功すれば、武力発動を中止す。
単に10月下旬だった開戦時期を「1ヶ月半」遅らせただけ。
11月2日に参内した東条首相は、涙を流しながら昭和天皇に上奏。
昭和天皇は沈痛な面持ちで応えます。
「こうなっては仕方ないが、なんとか日米交渉で打開を図ってもらいたい」
そして11月5日。
「帝国国策遂行要領」の修正案は「御前会議」で決定されました。
もう残された時間はありません。
精力的に交渉を行う東条首相。
11月7日。まず「甲案」をアメリカに手交。
・支那には25年ほど駐留を続ける。
・ただし和平が成立すれば直ちに撤兵を開始し、2年以内に撤兵を完了する。
日本側としても、これでアメリカが納得するとは思ってませんでしたし、
そもそもアメリカは暗号解読によって、
この次に「乙案」があるコトを知ってましたから、
「甲案」に関しては、全く相手にしてません。
そして11月21日。
日本がアメリカに手交した最終案が「乙案」。
・南部仏印進駐の日本軍は北部へ移動する。
・アメリカは年100万トンの航空機用ガソリンの対日供給を確約する。
・アメリカは蒋介石への支援を中止する。
「南部仏印進駐」より前の状態に時計の針を戻しましょう・・・って案。
これは日本にとって最大の譲歩だったようで、
対米強硬派ですら「これで日米交渉は成立かあ~」って思ってたみたい。
一方。対米交渉と並行して「戦争準備」も進められてます。
11月26日。南雲中将が率いる「機動部隊」が単冠湾を出航。
目的はハワイの米艦隊を奇襲するため。
ただし「日米交渉」が成立すれば、
大本営より機動部隊に対して「ツクバヤマハレ」(攻撃は中止。直ちに帰投せよ)
の暗号電文が発信される予定でした。
真珠湾攻撃部隊が単冠湾を出航してから、およそ24時間後。
ワシントンで野村大使が「ハル・ノート」を受け取ります。
東条首相はその内容に多大な期待を寄せていたコトでしょう。
もし「乙案を呑んでもいいよー」って書いてあれば、戦争は回避です。
ま。そこまで露骨に書いてなくても、乙案を呑みそうな雰囲気ならば、
タイムリミットを過ぎての交渉継続も可能だったかもしれません。
しかし。その中身は日本の譲歩案を一蹴する内容。
・日本は支那・仏印から全面撤兵する。
・日本は蒋介石政権を支持する。(汪兆銘政権の否認)
・日本は三国同盟を死文化する。
アメリカはマジメに交渉する気なんてさらさらない・・・。
和平派の東郷外相ですら、これを読んでガッカリ。
「戦争を避けるために鵜呑みにしようとしたが、ノドにつかえて少しも通らなかった」
12月1日。日米交渉はタイムアップを迎え、
この日に行われた「御前会議」で、正式に「対米開戦」が決定します。
12月2日。大本営は機動部隊に対して「作戦開始」の暗号を打電。
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」
(日本時間12月8日午前0時を期して戦闘行動を開始せよ)
こうして日本は「対米戦争」へと飛び込んで行ったのでした。
大本営が「トラ連送」(トラ・トラ・トラ)を受信したのは
12月8日午前3時22分のコトです。
「ワレ奇襲ニ成功セリ」
東条英機
第40代首相。対米開戦のときの首相なので、
全ての責任を一人で背負わされてる感があるが、
爆発寸前の爆弾を近衛首相から渡された格好なので、むしろ気の毒。
ただし「関東軍参謀長」や「陸相」の頃の行動に関しては、
支那事変の解決や日米交渉に対して障害となった点は否めない。]]>
概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
http://hosokawa18.exblog.jp/28594749/
2018-08-19T10:03:00+09:00
2019-11-10T06:49:05+09:00
2018-08-19T10:03:42+09:00
hosokawa18272
12
あ・・・ありのまま今起こった事を話すぜ!
「南部仏印へ進駐したら、アメリカから石油を止められた」
なにを言っているのかわからねーと思うが(以下略)
パニックに陥った近衛首相はルーズベルトとの直接会談に全てを賭けます。
「こうなったらどれだけ譲歩してもいい」
しかしアメリカに首脳会談を打診したものの、なかなかOKの返事がきません。
陸海軍のアセりはピークに達しました。
指をくわえて日一日と消えていく石油を見ているだけでいいのか。
オランダ領東インド(蘭印)には豊富な石油がある。
備蓄量があるうちに討って出るべきではないのか・・・。
昭和16年9月2日。陸海軍は「帝国国策遂行要領」を作成。
翌3日に大本営政府連絡会議に提出され、そのまま決定します。
近衛首相はとくに反対しませんでした。
あまりのあっけなさに、むしろ陸海軍が困惑したほど。
「首相はこの重大な本案について、理解していたのだろうか?」
この件はあまりにも重大なため「御前会議」が開かれるコトに。
御前会議の前に近衛首相は「帝国国策遂行要領」を木戸内大臣に渡すのですが、
木戸はコレを読んで腰を抜かします。
1. 対米戦争も辞さずとの決意の下に、概ね10月下旬をメドとし戦争準備を完整す。
2. これに並行して米英に対し、外交手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む。
3. 外交交渉が10月上旬に至るもメドが立たない場合は、直ちに対米開戦を決意す。
「ちょ・・・なんだこれは。開戦の決定ではないかっ」
「・・・・」
「期限まで区切ってるじゃないか。これでは戦争は避けられんぞ」
「すでに連絡会議で決定したコトだ。変更はできない」
「バカな。せめて期限設定だけでも削除しないと・・・」
「私がルーズベルトとの直接交渉で何とかする」
もちろんコレを読んだ昭和天皇もビックリ。
すぐに杉山参謀総長(陸軍)と永野軍令部総長(海軍)を呼びます。
「日米に事が起これば、陸軍としてどのくらいで片付ける確信があるのか?」
「南方方面だけは5ヶ月で片づけるつもりであります」
「お前は陸相のときに "支那は1ヶ月で片付く" と申したな。4年たってもまだやれぬではないか」
「支那は奥地が開けており、作戦は予定通りに行かず・・・」
「なにぃ?支那が広いと言うのなら、太平洋はもっと広いぞ!」
昭和天皇から激しい叱責を受ける両総長。
しかし彼らは最後まで具体的な「確信」を語りませんでした。
そして9月6日。運命の「御前会議」が開かれます。
この会議の最中に、昭和天皇がいきなり和歌を詠み始めたエピソードは有名。
四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ
昭和天皇が戦争回避を希望していたコトは明らか。
しばらく場は粛然とし、誰も一言も発しませんでした。
このとき「ちゃぶ台がえし」が出来たのは近衛首相だけでしたが、
そこまでの勇気はありません。
内閣が政策変更を行わない以上、昭和天皇にはどうしようもなく、
「帝国国策遂行要領」は原案のまま承認されます。
これで近衛首相の首は完全に締まりました。
タイムリミットを設定してしまった以上、
それまでに「日米首脳会談」を開かなければ、本当に戦争になっちゃいます。
しかし「ハル国務長官」は野村大使に言い続けます。
「交渉のネックは日本軍による支那撤兵にある。これが大前提だ」
それが簡単にできないから首脳会談をやろうよ・・・って言ってるのに。
もはやアメリカが「時間稼ぎ」してるのは明らか。
そして9月25日の連絡会議で、杉山・永野の両総長は
「外交交渉のタイムリミットは10月15日にしたよ」
って具体的な日時を示してきます。
この土壇場になって、ようやく近衛首相は必死になるのですが、
とにかく東条陸相が頑固。
「何とかして支那から撤兵できないのか?」
「ダメです。これまでの犠牲者を考えれば到底できない」
「しかし撤兵しないとアメリカと戦争になるんだぞ」
「人間たまには清水の舞台から飛び降りるコトも必要ですよ」
「一億国民の運命がかかっているのだ。そんなコト出来るかっ!」
近衛首相がいくら説得しても、全く聞く耳を持たない東条陸相。
ならば海軍に「アメリカに勝てる見込みがない」と言ってもらうしかありません。
実際にアメリカと戦うのは海軍ですから、それなら陸軍もメンツが立ちます。
しかし海軍はこの申し出を拒否。
「散々予算を貰っておいて、今さらそんなコト言えない・・・」
完全にドン詰まりになった近衛首相。
タイムリミットの10月15日を迎えてしまうと、
再び政権をブン投げて、総辞職しちゃったのでした。
木戸幸一
早くから「牧野内大臣」の秘書官として宮中にウエイトを持っており、
湯浅倉平の辞任に伴って内大臣となる。
影響力が低下していた西園寺元老に代わって首相の奏薦権を握り、
特に東条英機の奏薦には大きな役割を果たした。
維新三傑のひとり「木戸孝允」の孫だが、父が孝允の養子なため血縁はない。]]>
ひとたび兵が仏印に行けばもう手が引けなくなります
http://hosokawa18.exblog.jp/28593114/
2018-08-18T12:47:00+09:00
2019-03-01T22:23:38+09:00
2018-08-18T12:47:57+09:00
hosokawa18272
12
昭和16年6月22日。独ソ開戦。
またもやヒトラーは日本に何の通告もなく、勝手なコトを始めたのでした。
これで「松岡構想」は一瞬にして吹き飛びまして、
新たな戦略の練り直しを迫られます。
ざっくり言っちゃえば、
この機に乗じてドイツと組んでソ連を挟撃する「北進」か。
ソ連の脅威がなくなったので、安心して東南アジアへ兵を進める「南進」か。
「北進」を強硬に唱えたのが松岡外相。
「今すぐ北進してドイツを勝たせるべきだ。それから南方へ進出すれば良い。
先に南方へ進出すればアメリカが参戦して来る。
そうなったらソ連は生き延び、日独はともに敗北しかねない」
これに対して海軍と陸軍省は「南進」を主張。
「南進すべきだ。北進したって資源的に得るはモノは何もない。
それに対ソ戦に踏み切れば、アメリカは日本への資源供給を断つだろう。
そうなったら我々は資源を求めて、結局は南進せざるを得なくなり、
アメリカともソ連とも戦うハメに陥ってしまう」
たしかにどっちの言い分にも一理あります。
で。結局「どっちもやろう」ってコトになりまして、
「北進」に関しては「対ソ戦」の準備として約70万の兵力を満州へ動員。
いわゆる「関特演」が実行されます。
「南進」に関しては「南部仏印」(ベトナム南部)への進駐が検討。
松岡外相はあくまでも南進に反対でした。
「南部仏印へ進駐したら絶対にアメリカと戦争になる。それだけはダメだ」
・・・と同時に、松岡は「諒解案」を基にした日米交渉にも反対。
「あんな交渉したってまとまるワケがない。それよりドイツとの提携を強めるべきだ。
ドイツがヨーロッパで勝利した後に、必ずアメリカと交渉するチャンスは来る!」
しかし近衛内閣は「日米交渉」の継続を強く望んでおり、
今や松岡外相はその障害にしかなりません。
そこで近衛首相は 7月16日 に内閣を総辞職。
松岡を外した上で「第3次近衛内閣」を発足させます。
たしかに日米交渉を継続するならば「松岡外相」を替えるしかありませんでしたが、
同時に「南部仏印進駐」に反対する人もいなくなっちゃいます。
こうして昭和16年7月28日。
運命の決断ともいえる「南部仏印進駐」が実行されたのでした。
このとき近衛首相と幣原喜重郎が交わしたこんなやり取りが残ってます。
「いよいよ南部仏印に兵を送ることにしました」
「船はもう出航したんですか」
「ええ。一昨日に出航しました」
「それではまだ向こうに着いていませんね。それなら台湾かどこかに引き戻せませんか」
「すでに御前会議で決定したのですから、今さら翻すことはできません」
「そうですか。それならば私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります」
「そんな事になりますか!」
「もう日本軍がサイゴンに上陸したならば、アメリカと交渉してもムダでしょう」
「どうしてでしょうか。しばらく駐兵するというだけでこれは戦争ではない」
「見ていて御覧なさい。ひとたび兵が仏印に行けばもう手が引けなくなります」
8月1日。報復措置としてアメリカは「対日石油全面禁輸」を決定。
実質的にはこれで「日米開戦」は決まりました。
「日本に対して石油を止めた」ってコトは、
アメさんも「対日戦争」の腹を括った・・・ってコトでしょうから、
ここから戦争回避に持っていくのは絶望的。
イギリスのとある戦史家によれば、
「よくここから4ヶ月も開戦を延期できたよな~」
って、逆に感心しているほど。w
仏印はアメリカの領土じゃないし、アメリカの戦争準備も出来てないから、
それほど強硬的な態度には出ないだろう・・・。
こんな風に甘く考えてた近衛首相はパニック状態。
もはや選択肢は2つに絞られたのでした。
指をくわえながら石油が絶えるのをただ見つめているか。
それとも貯蔵量があるうちに討って出るか。
永野修身
軍令部総長。かつては駐米大使を務めたコトもある。
大事な会議でも平気で居眠りするため、ついたあだ名は「グッタリ大将」。
かなり早い段階で日米開戦は不可避と考えており、
南部仏印進駐を強硬に主張。その後も早期開戦を唱え続けた。
海相・軍令部総長・GF長官を全て経験した唯一の帝国海軍軍人。]]>
この諒解案を叩き台にして交渉を始めたらどうか
http://hosokawa18.exblog.jp/28592055/
2018-08-17T22:14:00+09:00
2019-11-10T07:03:42+09:00
2018-08-17T22:14:09+09:00
hosokawa18272
12
昭和15年9月に日本は「三国同盟」を締結。
松岡外相の構想は、この同盟にソ連を加えて「四国同盟」にするコトでしたが、
年が明けて昭和16年になると、ドイツとソ連の仲が険悪な状態に・・・。
そこで松岡はこの状況を外交交渉で打開するため、
昭和16年3月。自らヨーロッパへと赴きます。
松岡外相はヒトラーから大歓待を受けたものの、
「ソ連と仲良くするよー」
っていう言質を取れず、
またイギリスのチャーチル首相からは
「ドイツは近いうちにソ連へ攻め込むつもりだよ」
との秘密情報を受け取りますが、これを無視。
そして4月13日。モスクワでスターリンと「日ソ中立条約」を締結。
松岡の帰国時には、スターリン自らが駅まで見送りに来る・・っていう歓待っぷり。
「これで "四国同盟" へ弾みがついたぜ」
自信を深める松岡外相でしたが、
その頃。本国では松岡の知らないルートでアメリカとの交渉が進められていました。
昭和16年4月9日。ワシントンのワードマンパークホテルで、
岩畔豪雄(大使館付武官)・井川忠雄(外務省嘱託)とドラウト(神父)。
この3人が交渉を行って「日米諒解案」をまとめ上げます。
あくまでも民間レベルで行われた非公式なモノでしたが、
この案を受け取った「ハル国務長官」は、意外と前向きな姿勢を見せまして、
4月14日。野村駐米大使に正式な会談をオファー。
岩畔・井川から「日米諒解案」を受け取っていた野村大使は、
「何とかコレを正式な外交ルートに乗せたい・・・」
って思ってましたから、ハルからの話に飛びつきます。
こうして4月16日。最初の「野村・ハル会談」が行われたのでした。
「この "諒解案" を叩き台にして、日米両国はこれからの交渉を始めてはどうか?」
「喜んでーっ」
「日本政府はこの諒解案にどんな反応を示すだろうか?」
「きっと同意すると思います。トラスト・ミー」
「できるだけ早く日本政府の正式な意見を聞きたい」
野村大使は直ちに本国へ「日米諒解案」を打電。
4月18日。大本営政府連絡会議で近衛首相が自ら内容を読み上げます。
日本は以下を保証する。
・三国同盟はドイツが第3国より攻撃された場合にのみ発動する。
・中国との協定が成立した後、軍を中国から撤退させる。
・フィリピンの独立を保証する。
アメリカは以下を行う。
・蒋介石に対して和平の勧告を行う。
・満州国を承認する。
・日本との通商関係を回復する。
・日米首脳会談を5月にホノルルで行う。
「乗ったーっ!」
会議の参加者は全員が大喜び。
特に「陸軍」は超乗り気で
「急ぎましょう。今すぐ野村に返電を打ちましょう」
とアセる始末。w
この席には「松岡外相」がいませんでしたが、
松岡の訪欧中は、近衛首相が「外相」を兼任してましたから、
その権限を使って、近衛が野村へ OK の返電を打つコトはできました。
しかし近衛は「あとで松岡と揉めたら面倒だ」と言って、返電を保留。
「松岡外相が帰国するまで待ちましょう」
居並ぶ政府・軍の首脳たちは、そんな近衛の態度にガッカリしますが、
どうしようもありません。
4月22日。日ソ中立条約を締結してきた松岡外相が悠々と帰国。
さっそく開かれた閣議で、近衛が松岡に言います。
「日米諒解案には政府も統帥部も賛成している。その旨アメリカに伝えてほしい」
「アメリカは信用できない。これは謀略の臭いがする」
「・・・・」
「それにドイツやイタリアに対する信義が立たない」
「・・・・」
「話がウマすぎて何か裏があるに違いない」
たしかに松岡外相の予感はだいたい当たってます。
アメリカにとって「諒解案」は単なる交渉の「叩き台」にすぎないのに、
日本側は「この内容でアメリカは納得している」って勘違い。
最初からボタンを掛け違えているので、
たとえここで日本が「諒解案」にOKを出したところで、
今後の「対米交渉」がスムーズに行われたかは疑問でしょう。
それにそもそもアメリカは「諒解案」に興味はなく、
単に「時間稼ぎ」をするために利用しただけ・・・こんな説が有力です。
松岡外相は「諒解案」をさらに有利にした修正案をアメリカに示し、
返ってきたアメリカ側の回答も「諒解案」よりキビしいものに・・・。
こうして「日米交渉」は初っ端から暗礁に乗り上げてしまいますが、
日本にとってはそれどころじゃない事態が発生します。
6月22日。突如ドイツ軍がソ連領内へ侵攻。
「独ソ戦」が始まったのでした。
野村吉三郎
戦争直前の昭和16年1月に駐米大使となる。
ルーズベルト大統領とは旧知の間柄で、
それを見越した松岡外相が強く要請したらしい。
野村をサポートするため、途中から第2大使として来栖三郎が送られるが、
それでも日米交渉はムリゲーすぎた。]]>
バスに乗り遅れるな
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2018-08-16T07:06:16+09:00
2018-08-16T07:06:16+09:00
2018-08-16T07:06:16+09:00
hosokawa18272
12
「今までのやり方じゃ時局に対応できない。こうなったら私が "新体制" を作ります。」
こうブチ上げて、ビックウェーブを巻き起こした近衛首相。
たしかに近衛が言うように「帝国憲法」には問題点がありました。
天皇は直接政治に関与しません。ただ上奏を裁可するだけ。
実際には「内閣」や「帝国議会」や「統帥部」などが実権を持ってるのですが、
その組織図は「ピラミッド型」になっておらず、
それぞれが天皇に直結している・・・っていう究極の「タテ割り社会」。
あまりにも権力が分散しすぎて、国家運営が機能しなくなってました。
そんな中でドイツ軍のあの「快進撃」ですよ。
アレを見せられたら、こんな気持ちになっちゃうのも解かります。
日本もドイツのように「一党独裁」で行くべきだ。
全ての機関を「党」の支配下に置き、
党の指導者が天皇に対する唯一の輔弼者となり、
強力なリーダーシップで国家を運営していく・・・。
イタリアもソ連もこの体制だ。早く日本もこの体制に持ってかねばならない。
「バスに乗り遅れるな!」
「政友会」と「民政党」の2大政党は、さっさと自分たちの党を「解党」。
近衛の言う「新体制」とやらに乗っかろうとします。
これには発表した近衛自身がビックリ。
「え? まだ新体制がどのようなモノなのかすらハッキリしてないのに・・・」
近衛の政治的ブレーンであり「新体制」を仕掛けた張本人である風見章。
彼もこのような情けない政党の姿を見て嘲笑してます。
「近衛公ひとりの力にすがり "新党結成" という極めて安易な道を選ぼうとする。
この程度の人材の集合ならば叩き壊して正解だ」
近衛新体制には「陸軍」も同調。
「親軍的な一党独裁。いいじゃないか」
しかし。ここで意外な勢力が「新体制」に反対。激しい非難を浴びせます。
それが平沼棋一郎を中心とする「観念右翼」のグループ。
彼らは「天皇中心の政治体制で行こうよー」って考え。
「一党独裁」は天皇をないがしろにする制度であり、
とうてい受け入れられるモノではありません。
「近衛は幕府を作ろうとしている逆臣だ」
「そうだ。足利尊氏だっ」
もともと近衛は「観念右翼」と親しい関係にありましたから、
彼らの非難を聞いてたちまちショックを受け、グズグズになっちゃいます。
五摂家筆頭である近衛にとっては、痛いところを突かれたのでした。
それでも何とか「風見章」を中心にして「新体制」の骨格は作られ、
名称も「大政翼賛会」と決まります。
もちろん総裁は近衛首相。
しかし肝心の「綱領」がなかなか決まりません。
政党・議会・軍・官僚・マスコミ・学会・経済界・・・など。
ありとあらゆる分野からの集合体なので、議論は喧々諤々。
スムーズにきまるワケないのです。
そこで「綱領」に関しては、近衛首相に一任し、
大政翼賛会の「発会式」で発表する・・・と決まりました。
そして昭和15年10月12日。
いよいよ「大政翼賛会」の発会式が挙行されます。
はたしてどのような「綱領」がブチ上げられるのか?
みんなドキドキしながら近衛首相の発表を待ちます。
「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。
よって綱領も宣言も不要である」
これには参加者一同が盛大にズッコケ。
「ズコーッ!」
風見章は嘆いています。
「せっかく権力が集中する仕組みを作ったのに、
なぜ・・・なぜその権力をあっさり放棄するような発言をするのか?」
同じく近衛のブレーンの後藤隆之助も失望。
「もうこれで大政翼賛会はダメだと思った。
これじゃあ成立と同時に死児が生まれてきたのと同じだ」
要するに「近衛新体制」とは、
日本に「ナチス党」を作り、近衛首相が「ヒトラー」となる。
こういう計画でした。
しかし近衛には「独裁者」の器量が全くありません。
八方美人で、みんな仲良くがモットーで、敵を作るコトを異常に恐れる豆腐メンタル。
そんな独裁者いません。w
かと言って、国民から圧倒的な支持を得ている人物は「近衛」の他に存在せず、
彼を「ヒトラー役」として担ぐしかなかった・・・。
この時点で「新体制」の失敗は決まっていたのでした。
その後。法相となった平沼棋一郎による
「大政翼賛会は "政治結社" ではなく "公示結社" です。
なので政治活動を行うコトはできません。
そうですね・・・敢えていえば "衛生組合" のようなモノでしょうか」
この政府答弁で「大政翼賛会」は完全に死んだのでした。
風見章
近衛首相のブレーン。1次で書記官長(官房長官)、2次では法相を務める。
メディアをフル活用して国民を煽り、近衛内閣の人気を支えるが、
煽りすぎたせいで、支那事変が長期化する一因を作った。
新体制運動では政友会と民政党を共倒れさせる「政党爆破工作」を実施。
しかし肝心の近衛が躊躇したため、大政翼賛会は事実上失敗した。]]>
一国でも多くの国と提携してアメリカに対すべきなり
http://hosokawa18.exblog.jp/28564229/
2018-08-15T09:33:00+09:00
2019-03-01T22:07:37+09:00
2018-08-15T09:33:32+09:00
hosokawa18272
12
米内内閣は近衛が作り出したビッグウェーブに飲み込まれ、
そのウェーブに同調した「陸軍」による「必殺コンボ」で倒されました。
西園寺元老はとっくに近衛を見限ってましたから、
暗に近衛を首相にするコトにダメ出し。
「いまどき人気で政治をやろうなんて、そんな時代遅れな考えじゃダメだね」
しかし。すでに宮中の実力者は西園寺から木戸内大臣に移っており、
木戸はあっさりと近衛を首相に奏薦。
こうして昭和15年7月22日。第2次近衛内閣が誕生します。
そのころのヨーロッパ情勢としては、フランスが降伏したばかりで、
バトル・オブ・ブリテンが始まろうとしてるトコ。
ドイツ軍の快進撃に日本国内は熱狂し、
「やっぱドイツさんと同盟を結ぼうぜー」
って声が「陸軍」を中心に再浮上。
この情勢を利用して「ドイツ」との同盟に動いたのが外相の「松岡洋右」。
当時。日本は支那事変のゴタゴタでイギリスと揉め事を起こしており、
それに同調したアメリカから「通商航海条約」を一方的に破棄される
・・・っていう事態に陥っていました。
支那事変の解決もさることながら、
アメリカとの関係改善も重要な外交課題になってまして、
そこで松岡外相はアクロバティックな構想をブチ上げます。
「アメリカとは絶対に戦争しちゃいけない。
あくまでも外交交渉によって譲歩を引き出す必要がある。
しかし日本単独ではナメられちゃって、まともな交渉はできないだろう。
一国でも多くの国と提携しアメリカに対するべきだ。
そこで。ドイツ(とイタリア)と手を組んで、日本の発言力をUPさせる。
彼らがバックにいれば、アメリカも好き勝手は言えまい」
さらに
「この "三国同盟" にソ連も加えて "四国同盟" にするのだ。
そうなったら、もはや完全にアメリカは日本に手出しできなくなる」
日本・ドイツ・ソ連・イタリア
この4ヶ国パワーを背景にして、アメリカから譲歩を引き出そう・・・・。
これがいわゆる「松岡構想」。
近衛首相も東条陸相も「松岡構想」に賛成。
問題は海相の「吉田善吾」でした。
吉田海相は「三羽ガラス」の流れを組む「反ドイツ」派。
「ドイツなんかと組んだってムダだ」
と、一人で同盟締結に反対してたのですが、
すでに「三羽ガラス」は全て「海軍省」を去っており、
海軍の中で反対してるのは「吉田海相」だけ・・・って状態。
周りは全て敵だらけ。
自分は海軍省でトップの「海相」なのに、
轟々たる非難を散々に浴びせられます。しかも毎日。
吉田海相はノイローゼに陥り、自殺が心配されるほどになり、
ついに病気に倒れて海相を辞任。
で。代わって「海相」になったのが「及川古志郎」。
及川海相は言います。
「海軍ばかりが反対を唱え続けるのも申し訳ないから、賛成でいいです」
何かワケ解かんねー理由で、ついに「海軍」も賛成に回り、w
これで日本国内に「ドイツ」との同盟に反対する勢力はなくなったのでした。
近衛首相は昭和天皇に「同盟締結」の裁可を求めます。
しかし昭和天皇は明らかに難色を示していました。
「今しばらく独ソの関係を見極めた上で締結しても遅くないのではないか」
「ドイツは信頼してよいと思います」
「アメリカと事を構えるような場合になっても、本当に大丈夫なのか?」
「もしそうなれば単身で戦場に赴いて討ち死にいたします」
「やはりドイツやイタリアのような "成り上がり" と同盟を結ぶのは心配だ」
「及ばずながら、誠心奉公する覚悟です」
「もし万が一のコトになった場合は、近衛は私と憂いを共にせよ」
明らかに反対でありながら、昭和天皇は裁可を与えます。
たとえ自分の意見とは違っていても、閣議決定した上奏には裁可を与える・・・。
「立憲君主」を旨とする昭和天皇にとっては、辛いところだったでしょう。
こうして昭和15年9月27日。
「日独伊三国同盟」は締結されたのでした。
アメリカは即座に日本に対する「屑鉄」の輸出を全面禁止。
予想以上にキビしい経済制裁を仕掛けてきます。
松岡外相としては「対米交渉」を有利にするための
単なる「ツール」として、この同盟を結んだワケですが、
はたしてどれだけ勝算があったんでしょうか?
本当に「四国同盟」は可能だと思ってたんでしょうか?
アメリカとの「戦争リスク」が軽減されると考えてたんでしょうか?
どうにも日本にとっては「百害あって一利なし」としか思えません。
西園寺元老は「同盟締結」のニュースを聞くと、
そばに仕えていた侍女たちに言いました。
「これでもう、お前さんたちも畳の上で死ぬコトはできない」
松岡洋祐
連盟脱退の際の全権代表。しかし脱退には最後まで反対していた。
外相になると異常なまでのリーダーシップを発揮し、
「三国同盟」や「日ソ中立条約」を締結。四国同盟の樹立を目指したが、
独ソ戦によって彼の構想は吹き飛んだ。その後に外相から外される。
日米開戦のニュースを聞くと「ぼく一生の不覚だ」と号泣したらしい。]]>
畑陸相には気の毒であるが非常手段も止むを得ず
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2018-08-14T16:23:00+09:00
2018-08-25T11:58:01+09:00
2018-08-14T16:23:59+09:00
hosokawa18272
12
不人気すぎた阿部内閣がわずか4ヶ月で崩壊すると、
次の首相は海軍の「米内光政」が選ばれます。
この選定には「昭和天皇」が深く関与していたようで、
「昭和天皇独白録」にこんな風に書かれてます。
「米内はむしろ私の方から推薦した。
日独同盟を抑える意味で米内を首相に任命した。
そして米内に大命を授けると同時に "畑陸相" を呼んで、米内を援けるコトを要望した。
ところがこの要望が禍をなして、陸軍の反対を招いてしまった」
とにかく昭和天皇は「ドイツ」と組むことに反対でしたから、
ドイツ大キライの急先鋒である「米内」を頼りにしたのは当然でしょう。
しかし陸軍は陸相の「畑俊六」に大命降下があるモノと勘違いしてたため、
「米内に大命が下った!」
と聞いて、非常に悔しがります。
「しまった。海軍にしてヤラれた」
そして畑陸相が昭和天皇から「米内を援けよ」と直々に要望された件も、
「宮中の陰謀」にしか写らなかったのでした。
昭和15年1月15日。こうして誕生した米内内閣。
もう最初から「陸軍」はこの内閣をツブす気マンマン。
米内の使命は「とにかくドイツとは絶対に組まない」コト。
しかし4月に入ると、ついにドイツ軍の「西方電撃戦」が始まっちゃいます。
4月にデンマークが、5月にはオランダ・ベルギーが。
そして6月。フランスまでもがあっけなく降伏したのでした。
米内にとって、このドイツ軍のイケイケドンドンは最悪。
「防共協定強化」の一件で、ドイツに反感すら抱いてた「陸軍」でしたが、
破竹の快進撃を見てコロッと態度を変えちゃいます。
「ドイツはすげーよ。やっぱドイツさんと同盟を結ぶべきだ」
新聞も連日のように「ドイツ軍の勝利」について報道しまくってましたから、
国民も「ドイツと組んだ方がいいんじゃね?」って雰囲気に・・・。
それでも米内首相は抵抗し続けます。
「ドイツと同盟? はっ・・・バカ言ってんじゃねーよ」
しかし。ここで動いたのが「首相になってもらいたい人アンケート」で、
圧倒的なナンバーワンを誇る近衛文麿。
「こうなったら私が立ち上がるしかない!
政党も軍も国民も一丸になった "新体制" を作りましょう」
要するにナチっぽい強力な体制を作ろうぜ・・・って話。
これに「軍」も「政党」も「官僚」も「国民」も乗っかろうとします。
「乗るしかない。このビッグウェーブに」
特にこのウェーブに乗ろうとしたのが「陸軍」でした。
「いいじゃないか。近衛公に "親軍" 的な一党独裁を作って貰おうよ。
その方が我々としてもやりやすい」
直ちに陸軍は「倒閣計画」を開始します。
もちろんそのやり方は、
陸相辞任 → 陸軍が後任の陸相を立てず → 倒閣
かつて宇垣内閣を流産させた、この必殺コンボ。
しかし。肝心の「畑陸相」がこの計画に乗り気じゃありません。
畑陸相は昭和天皇から「米内を援けよ」との要望を受けており、
もし辞任しちゃったら、昭和天皇を裏切るコトになるからでした。
たしかに「畑陸相」の気持ちは良く解かります。
しかし一刻も早く「陸相」を辞めてもらわなければ、この計画は始まりません。
陸軍上層部の連中は思案した結果、
皇族であり参謀総長でもある「閑院宮」に説得してもらうコトにしました。
「畑陸相に辞めるよう説得して下さーい」
要請された閑院宮は答えてます。
「陸軍の大多数が内閣の更迭を必要とするのであれば、
畑陸相には気の毒であるが、このさい非常手段を取るコトもやむを得ないだろう」
さすがの畑陸相も「宮様」の説得には逆らえず、陸相を辞任。
これで「必殺コンボ」が決まって、
昭和15年7月22日。米内内閣は総辞職したのでした。
畑陸相が米内首相に「辞表」を提出したとき。
その顔は苦悶の表情に満ちていたそうです。
後に米内は回想しています。
「畑のションボリした姿は堪らなかった。却ってこっちが気の毒になったよ」
昭和天皇は戦後になって、
「米内の内閣がもう少しだけでも続いていれば、あの戦争は避けられたかもしれないね」
と、何度も悔やんでいたといいます。
米内光政
第37代首相。
ドイツ嫌いで「三国同盟」の阻止にガンバった点は評価されるが、
途中から支那事変に関して強硬になったり、いきなり海南島を奪ったり、
重要なシーンで何も発言しなかったり・・・と、悪評を受けるコトも多い。
海軍用語の「MMK」(モテてモテて困る)を地で行ってたイケメン。]]>
公定価格なんて守ってられるか
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2018-08-13T23:49:00+09:00
2018-08-20T17:28:35+09:00
2018-08-13T23:49:12+09:00
hosokawa18272
12
平沼内閣が総辞職した後。次の首相に推されたのは「阿部信行」。
阿部は温厚な人柄で「良識派」の陸軍軍人。(予備役)
西園寺元老も「阿部ならば問題ない」と言って了承。
昭和14年8月30日。阿部首相が誕生します。
それから2日後の9月1日。
ドイツ軍がポーランドへ侵攻して「第2次世界大戦」が勃発。
ちょうど日本は「防共協定強化」の交渉で、ドイツにしてヤラれたばかり。
この瞬間では「ドイツに味方しよう」なんて人はおらず、
かと言って「英仏に味方すべき」という人もなく、
翌9月2日。阿部首相は「ヨーロッパの戦争には介入せず」との声明を発表。
たしかに日本の状況はヨーロッパどころじゃありません。
一刻も早く「支那事変」を解決する必要があります。
・・・っていうのも、支那事変が始まってからすでに2年。
当初から予想された通り、経済・財政がトンでもないコトになってたのでした。
高橋蔵相が2.26で殺害されて以降、インフレが加速気味だった日本経済。
そこへ「支那事変」が勃発したために、一気に「軍事予算」が増大。
「統制経済」を導入するコトで、何とか破綻しないで済んでましたけど、
軍事予算が膨大にふくらんじゃたため「カネ」は溢れているのですが、
とにかく「モノ」がない状態。
「生産力」の拡大はなかなか上手くいかず、
円安によって輸入がムズカしくなったため「輸入物資」が国内に入って来ず、
物資は「軍需」に優先的に回されちゃうので、
ますます生活用品が不足して「モノ」の価格が高騰。
大蔵省はインフレに悩まされていたのですが、
そこへ「第2次世界大戦」が起こってトドメを刺されました。
これでヨーロッパは「物資」を抱え込むのに必死となり、
ますます日本へは「モノ」が入って来なくなります。
物価の高騰はハンパない状態になって、さらにインフレが進行。
このままでは日本経済はチェックメイトです。
昭和14年10月18日。ついに政府は「国家総動員法」の第19条を発動。
第19条は「政府がモノの価格を決められる」という条項。
この条項を使って、政府は勅令を出しました。
あらゆる商品の価格は 9月18日 の水準より上げてはいけない。
こうなったら無理やりにでも「インフレ」を抑えようとする強硬策。
これがいわゆる「9.18ストップ令」。
とにかく物価を釘づけにして時間を稼ぎ、
その間に政府が「モノ」の値段を決めちゃいます。(公定価格)
本・歯ブラシ・洋服・野菜・魚肉・・・ありとあらゆる商品に値段を設定。
政府が「公定価格」を設定した商品は 40万品目以上 と言われます。
もちろん「賃金」に関しても「9.18ストップ」です。
そうしないと余計にインフレに拍車がかかっちゃいます。
モノの値段を政府が決めるコトで、インフレを抑制しましょう・・・。
はい。完全な共産主義です。どうもありがとうございまし(以下略)
「公定価格なんて守ってられるかーっ」
しかし企業や商人もバカじゃありません。
クソ安い「公定価格」なんかを守って商品を売ってたら大赤字。
そんなコトしたって商売になりません。
そこで彼らは「市場」に商品を流さず「ヤミ市」で商売するようになったのでした。
もちろん「9.18ストップ令」なんて無視してますから、物価はガンガンに上昇。
対して消費者の賃金は「9.18ストップ」されてますから、
国民の生活はますます困窮しちゃいます。
「何とかインフレを抑えよう」
無理な経済政策を強行した阿部内閣でしたが、
逆にインフレを加速させる結果になっちゃったのでした。
経済はグチャグチャになってしまい、阿部内閣に対する恨みの声が急増。
ついに帝国議会は阿部首相に対して「内閣不信任案」を提出。
阿部首相は衆院解散で乗り切ろうとしたものの、陸軍が見限ったため、
昭和15年1月。阿部内閣は総辞職を余儀なくされたのでした。
何かと非難されるコトが多い「9.18ストップ令」ですが、
阿部内閣の「経済政策」が悪いワケじゃありません。
「支那事変」を解決できないのが諸悪の根源なのです。
これを解決しない限り、何をやってもインフレは進みます。
支那事変を解決するには、中国を援助するイギリスを何とかしなければ・・・。
そのためには「ドイツ」と手を結ぶしか・・・。
この考えに至ったら「バッドエンド」へと一直線。
まだこの時点ではドイツの「西方電撃戦」が始まる前ですから、
陸軍も「ドイツ熱」にはそれほど罹患してません。
何とかこのタイミングでイギリスと交渉できなかったですかねー・・・ムリか。
阿部信行
第36代首相。
良識派の陸軍大将だったが、2.26事件を機に予備役となる。
あまり目立たない性格だったためか、知名度は低く、
組閣の大命を受けたとき、新聞記者は誰だか解からなかったほど。
不人気な内閣だったが、これは時勢がら仕方ないといえる。]]>
欧州の天地は複雑怪奇
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2018-08-11T07:33:00+09:00
2020-06-28T04:24:41+09:00
2018-08-11T07:33:15+09:00
hosokawa18272
12
昭和14年1月。無責任な形で政権をブン投げた近衛首相。
近衛が後任の首相として頼んだのは、枢密院議長の「平沼棋一郎」。
平沼は「右翼」のボスで、リベラルじいさんの西園寺元老はとにかくこの平沼が大キライ。
しかし他に選択肢もなく、しぶしぶ了承します。
ところがイメージと違って、意外な政権運営を見せる平沼首相。
議会を尊重し、自由主義的な「財界」や「政党」とも上手く協調。
こんな平沼を見て西園寺元老は驚きを隠せません。
「なんだ。近衛よりもよっぽどイイじゃないかっ」
そんな平沼内閣で最大の問題となったのが「防共協定」の強化について。
すでに広田内閣のときに、ドイツとは「防共協定」を結んでいましたが、
これは単なるセレモニー的なもので、ほとんど実効性はありません。
「ソ連って何か感じ悪いよねー」
「そうだねー」
って、挨拶を交わす程度のモノ。
この協定を「軍事同盟」にレベルアップしようぜ。
・・・ってドイツが提案してきたのでした。
当時。ヒトラーはラインラントに進駐するわ、オーストリアを併合するわ、
ズデーテンを接収するわ、チェコスロバキアを解体しちゃうわ・・・まさにやりたい放題。
イギリスは「宥和政策」によって、このムチャクチャを許してきたのですが、
ま。我慢にも限界はあります。近いうちに「イギリス」が敵となるのは明らか。
そこでヒトラーは日本と「軍事同盟」を結ぼうとする上で、
仮想敵国として「ソ連」の他に「イギリス」を加えたのでした。
「日本もイギリスとは中国でゴタゴタを起こしてるから、ちょうどイイよね」
ところがコレが日本にとってはネック。
「イギリス」を敵に回せば、もれなく「アメリカ」も付いてきます。
はたしてイギリス・アメリカを敵に回して大丈夫なのか?
平沼首相はこの問題に関する「五相会議」を70回以上も開いてます。
板垣陸相は同盟締結に強く賛成。
「我が国にとって最も重要なのは"支那事変"の解決だ。
それをジャマして中国を助けているのがソ連とイギリス。
ドイツと手を結んでこの2国を牽制するのは良策ではないか」
米内海相は反対。
「日本の海軍は英米に勝てないようになっているのだ。
ましてや独伊の海軍なんてクズ同然。お話にならない」
有田外相・石渡蔵相も反対でした。
「我が国の貿易相手は70%が英米である。
とくに軍用資材はそのほとんどをアメリカから輸入している。
その得意先を敵に回すような同盟なんて結べるワケがない」
会議は延々と平行線を辿り、そんな最中の昭和14年5月11日。
日ソ国境でソ連軍との紛争が勃発。
「ノモンハン事件」が始まります。
これで「陸軍」はますますドイツとの同盟締結に傾倒するのですが、
一方。当時の「海軍省」のトップ3
米内光政 (海相)
山本五十六 (海軍次官)
井上成美 (軍務局長)
この3人(いわゆる "三羽ガラス" )がとにかく強硬な「反ドイツ」派。
ガッチリとスクラムを組んで、あくまでも「日独同盟」に反対します。
実は平沼首相もドイツと組むコトには反対でした。
たしかに平沼首相は「右翼」なのですが、古いタイプの右翼。
いわゆる「観念右翼」ってヤツでして、
ざっくり言えば「天皇中心の政治体制で行こうよー」って考え。
ですから平沼にとっては「全体主義」も「共産主義」も憎むべき敵であり、
内心ではドイツもソ連も大キライだったのでした。
なかなか OK の返事を寄こさない日本政府。
ついにシビレを切らしたヒトラーは言います。
「あんなグズを相手にしてもしょうがない」
こうして8月23日。いきなり「独ソ不可侵条約」を締結しちゃいます。
同盟交渉している相手に何も通告せず、
しかもその交渉で「仮想敵国」としている国と勝手に軍事条約を結んじゃうなんて・・・。
ナメきったヒトラーの態度に、さすがの平沼内閣もプンスカ。
特にダマされた格好となった「陸軍」の怒りは半端ありません。
「な・・・何てヤツだ。誠意のカケラもないのか?」
平沼首相は直ちにドイツとの交渉を打ち切り、
「欧州の天地は複雑怪奇」
という言葉を残して、昭和14年8月30日に総辞職。
ノモンハン事件が停戦するのはその直後。9月15日のコトです。
向こうから「同盟を結ぼうぜー」って持ちかけておきながら、
いきなり一方的に水をぶっかけるような仕打ち。
「アイツは全く信用するに値しないヤツだ」
日本政府はこのときの交渉を通じて、アイツの本性について骨身にシミたハズ。
しかし2年後。またしても日本はあのチョビヒゲにしてヤラれるのでした。むー。
平沼棋一郎
第35代首相。
司法を牛耳る「右翼」のボス。西園寺からは蛇蝎のごとく嫌われたが、
実は皇室主義の立場から「全体主義」には反対だった。
「大政翼賛会」を骨抜きにするコトに成功し、
終戦の御前会議では「即時終戦」に一票入れている。]]>
上海が危険なら居留民を全て引き揚げたらよい
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2018-08-10T20:40:00+09:00
2018-08-25T01:34:31+09:00
2018-08-10T20:40:41+09:00
hosokawa18272
12
昭和12年7月7日に発生した盧溝橋事件は、4日後の11日に現地で停戦協定が成立。
これでこの事件は終わったハズでした。
しかし同日。近衛首相は「中国への派兵」声明を発表。
さらに停戦協定は結ばれたものの、華北では中国軍による挑発的な事件が続出しており、
相変わらず「小競り合い」の状態は続いていました。
「一刻も早くこの小競り合いを収めなければ、タイヘンなコトになる」
独りでアセっていたのは参謀本部・作戦部長の「石原莞爾」。
石原は近衛首相に提案します。
「速やかに近衛公が南京へ飛んで、蒋介石と直接交渉して下さい」
しかし近衛首相はこの提案に消極的。
それならば広田外相に南京へ行ってもらおうと考えたのですが、
「そんなコトをしてもムダだ・・・」
と、広田外相も全く関心を示しません。
これを聞いて激怒する石原。
「ダメだ・・・ダメだこいつら。この重要なときに何考えてるんだ?
特に近衛家は一千年に渡って皇恩を受けてきた身ではないか。
その万分の一のお返しをする気もないのか!」
そんなこんなしてるうちに、ついに7月29日「通州事件」が発生。
これは「通州」に居留していた日本人が虐殺された事件。
ちょっと内容を書くには憚られるので、詳しく知りたい人はググって下さい。
新聞にこの事件が取り上げられると、世論は激昂します。当然でしょう。
「暴虐な中国を懲らしめろっ。暴支膺懲!」
この事件は決定的でした。
一気に硬化した世論の中で、停戦は困難な状況に陥ります。
8月9日。上海で大山中尉(海軍)が中国軍に殺害される事件が発生。
さらに中国軍3万が上海まで前進して「日本人居留区」を包囲しようとします。
これに対する海軍陸戦隊はわずか4000。
そこで米内海相は「3個師団」を上海に派兵するよう陸軍に要請しますが、
石原はこれを拒否。
「そんなコトをしたら本当に全面戦争になってしまう。
上海が危険ならば、居留民を全て日本へ引き揚げたらよい。
彼らの財産は1億でも2億でも国が補償してやれ。それでも戦争するより安くつく」
「さすがにそれは極端すぎる・・・」
陸軍上層部は石原の意見に対して反対が続出。
そこで「陸軍次官」(陸軍省のナンバー2)の梅津美治郎が妥協案を出します。
「ならばこうしよう。2個師団だけを上海に派遣する。
そして専守防衛に徹して、絶対に上海からは一歩も出ない。
これなら全面戦争に至るコトはないだろう。どうだ?」
石原は梅津次官の提案を受け入れ、陸軍は2個師団の派兵を決断。
8月13日に開かれた閣議で「上海派兵」について話し合われます。
この閣議で派兵に唯一反対したのが蔵相の「賀屋興宣」。
「ここで中国と全面戦争になれば、日本の財政はトンでもないコトに・・・」
ところが賀屋蔵相の意見を米内海相が一喝。
「ダマれっ!」
これまで中国への派兵に反対し続けてきた米内海相でしたが、
戦火が海軍のテリトリーである「上海」に飛び火しようとしている今。
もはや他人事ではいられません。
こうして上海派兵は閣議決定され、そのまま昭和天皇に裁可されました。
「ここに至ってはやむを得ない」
同日。ついに中国軍3万が上海の日本人居留区を攻撃。
海軍陸戦隊4000が応戦して「第2次上海事変」が勃発します。
8月23日。上海派遣の2個師団は上陸に成功したものの、
中国軍の優勢な兵力と火力の前に大苦戦。
8月30日には追加の派兵要求が出され、
これに散々渋っていた石原でしたが、9月6日に3個師団の追加派兵が決定。
こうして第2次上海事変は全面戦争へと発展。
まさに石原が恐れていた通りになっちゃったのでした。
それでも依然として「不拡大」を叫び続ける石原。
完全に陸軍の中でも浮いた存在になっちゃいまして、
9月27日。ついに石原は参謀本部から追い出され、
関東軍の「参謀副長」に左遷。石原は表舞台から消えます。
11月11日。10倍近い敵をようやく敗走させた派遣軍は上海を占領。
そのまま追撃に移り、12月13日には首都「南京」も攻略しますが、
中国軍は首都を「重慶」に移して戦闘を継続。
昭和13年1月16日。
近衛首相はいわゆる「近衛声明」を発表。
「爾後国民政府を対手とせず」
これで両国間の外交関係は断絶し、
完全に停戦の手がかりを失ったのでした。
後になって近衛首相は後悔しましたが、もはや後のまつり。
ますます「ドロ沼」と化していく戦況にヤル気を失った近衛首相。
昭和14年1月7日。全てをブン投げて総辞職しちゃったのでした。
石原莞爾
満州事変を成功させた天才軍人。嵐を呼ぶ男。
一方。支那事変では「不拡大」を唱え続けて陸軍中枢と対立。
関東軍参謀副長に左遷され、閑職を転々とした後に予備役となった。
宇垣内閣を流産させるが、最期までそのコトを後悔していたらしい。
文句なしで陸軍随一の優秀な頭脳。ただし素行にかなりの問題アリ。]]>
政府自ら気勢をあげて事件拡大へ滑り出さんとする気配だ
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2018-08-09T21:16:00+09:00
2018-08-20T17:26:54+09:00
2018-08-09T21:16:38+09:00
hosokawa18272
12
昭和12年6月4日。西園寺元老は「近衛文麿」を首相に奏薦。
近衛は若くて国民からの人気も高いポピュリスト。
この内閣が誕生してからわずか1ヶ月後に「盧溝橋事件」が発生します。
7月7日。北京郊外で夜間演習中の支那駐屯軍(第1連隊第3大隊)が
中国軍からの銃撃を受けます。
はたして誰がどういう経緯で撃ったものなのか?
諸説あるみたいですが、おそらく中国軍による偶発的なものだろう。
・・・っていうのが一般的な説みたい。
個人的には「中国共産党」による謀略説もかなり濃厚だと思いますけど。
翌7月8日。東京に事件発生の第一報が到着。
「まさか・・・また陸軍の仕業じゃないだろうな?」
近衛首相も外務省も海軍も。みーんな「陸軍」を疑います。
ま。これまでいろいろと独断でやらかしてきた陸軍でしたから、
前科がありすぎて、身内からの信用が全くなかったのでした。w
一方。この報告を受けた陸軍の反応は割れてます。
陸軍省軍務課長・柴山兼四郎
「厄介なコトが起こったな」
参謀本部作戦課長・武藤章
「愉快なコトが起こったね」
しかし肝心なのは、陸軍で絶大な発言力を持っている
参謀本部作戦部長の石原莞爾。
彼はもともと「中国とは戦わずに満州で国力を蓄える」って考えの人。
「参謀本部の方針はあくまでも不拡大だ!」
7月9日。臨時閣議が開かれ、杉山陸相が発言。
「北京・天津には1万2000人の在留邦人がいるが、駐屯軍は5500名しかいない。
対して華北に配置されている中国軍は30万。
これじゃあ居留民を守れないから、国内から北京へ3個師団を派遣したい」
これに米内海相が反対。
「そんなコトしたら全面戦争になりかねない」
近衛首相も海相の意見を支持。
「現地で解決できそうだから、3個師団の派遣は必要なかろう」
すでに現地の支那駐屯軍は中国側との停戦交渉に入っており、
日中両軍は撤兵を完了。戦闘行為は終了してます。
このまま停戦協定が成立すれば、この事件はこれでお終い。
歴史にも残らない局地的な「小競り合い」で終わるハズでした。
しかしその深夜。支那駐屯軍から石原に入電。
「盧溝橋一帯から日中両軍は撤退したが、依然として銃声が聞こえる。
何者かが戦果の拡大を狙っている可能性あり」
これを読んだ石原は悩んじゃいます。
「中国との戦争は避けたい。しかし1万2000人の居留民は救わねばならない・・・。
やはり手遅れにならないうちに、国内から3個師団を派遣すべきだろう」
こうして7月10日。石原は派兵の決裁書にサインしちゃいます。
ところがその後も悩み続けた石原。
「やっぱり派兵はダメだ・・・それこそ取り返しがつかなくなる」
そこで7月11日早朝。石原は近衛首相の私邸を訪問。
「おやっ。どうしたんですか石原さん。こんな早朝に?」
「今日の閣議で陸相が派兵を提案すると思うのですが、それを否決して下さい」
「えっ・・貴方が決裁したんじゃないのですか?」
「考えが変わった。やはり不拡大を貫かねばならない」
これを聞いた近衛首相は考えます。
「陸軍がこんな有様だとは・・・これは政治主導のチャンスかも」
陸軍にコントロールされるコトを嫌っていた近衛首相は
むしろ陸軍の先手を取れば主導権を握れると判断。
7月11日の閣議で派兵を決定し、
その日の夕方。国民に向けて大々的に政府声明を発表。
「ポピュリスト」の悪いクセ・・・としか言いようがありません。
「今次事件は全く支那側の計画的な武力抗日であることに疑いの余地なし。
よって政府は本日の閣議において重大決意をなし、
北支出兵に関して、政府の執るべき所要の措置を為すことに決せり」
あろうことか政府が率先して戦争熱を扇動し始めたのでした。
新聞社はこの声明に同調する記事を書き、
政党も財界も一致して「近衛内閣」を支持。
しかし外務省の石射猪太郎は、怒りを込めて記しています。
「官邸はあかあかと灯をともして、まるでお祭りのように賑わっていた。
政府自ら気勢をあげて、事件拡大へ滑り出さんとする気配だ」
山川教科書だと「盧溝橋事件」についてこう書いてあります。
「近衛内閣は軍部の圧力に屈して、当初の不拡大方針を変更し、
兵力を増派して戦線を拡大した」
この記述はどうなんでしょうか?
むしろ積極的に前のめりになってたのは「近衛首相」であり、
しかも「陸軍からイニシアチブを握るため」と「内閣支持率を上げるため」
・・・っていうクソつまんねー理由。
こうして取り返しのつかない「支那事変」が始まっちゃったのでした。
近衛文麿
第34・38・39代首相
国民からの人気はやたらと高いスーパーポピュリスト。
近衛声明・三国軍事同盟・南部仏印進駐などなど。
結果的に彼の政策は悉く「対米開戦」への道を開いた。
気の毒な面もありますが、その責任はあまりにもデカすぎ。]]>
断固として宇垣を忌避すべきである
http://hosokawa18.exblog.jp/28545166/
2018-08-08T20:55:00+09:00
2018-08-10T00:32:02+09:00
2018-08-08T20:55:28+09:00
hosokawa18272
12
昭和12年1月に広田内閣は総辞職。
すぐに西園寺元老は次の首相に「宇垣一成」を奏薦しました。
宇垣はかつて「宇垣閥」を作って陸軍を牛耳っていたボス。
その後。干されて「予備役」に回されてましたが、
首相としては文句なしの「大物」です。
「2.26以降。調子ブッこいてる陸軍を抑えられるのは宇垣しかいない」
宇垣は政治的手腕に優れ、新英米派で国際感覚にも優れた人物。
後に「盧溝橋事件」が起きたときは、近衛内閣の派兵決定に批判的で、
外交交渉を優先するように主張してます。
もし宇垣が首相になってれば「盧溝橋事件」は違う展開になってたでしょうし、
少なくともあんなグダグダな「ドロ沼」には陥ってなかったハズ。
そう考えれば、ここで「宇垣首相」を誕生させるのは実にイイ案ですが、
これに参謀本部の課長「石原莞爾」が猛反対します。
「日本は満州で国力を蓄えるべきだ」
「それにはあと10年は対外戦争をすべきじゃない」
石原はこのような構想を持っており、この構想を成し遂げるにはロボットが必要。
「宇垣」はたしかに有能な男なのですが、それだけに傀儡にはなりません。
逆に石原にとって、大きな壁として立ちはだかるのは明白。
そこで石原は「林銑十郎」に目を付けます。
彼が首相になれば思う通りに動いてくれるだろう。
こうして石原は「宇垣」の組閣を阻止する工作を開始。
「断固として宇垣を忌避すべきである」
石原は復活したばかりの「軍部大臣現役武官制」を利用しました。
1月25日。宇垣一成は宮中に参内。組閣の大命か降下されます。
さっそく組閣作業を開始した宇垣。
陸相のポストは「現役武官」から選ばなければなりませんから、
宇垣は陸軍に要請。
「誰か適当な人を陸相に推薦して下さい」
するとかえってきた返事は
「そんな人いません」
石原は陸軍の上層部に手を回して、誰も「陸相」に就かないように工作したのでした。
「ちょ・・・ちょっと待って下さい。誰かいないんですか?」
「みんな "宇垣内閣に入るのはイヤだ" って言ってるんですよね」
「そ・・・そんな~」
陸相がいなければ組閣はできません。
そこで宇垣はかつて自分の腹心だった「小磯国昭」に直接電話します。
「頼むからお前が陸相になってくれ」
「そんなコトしたら、私が陸軍の中で孤立しちゃいますよ」
「いいじゃないか。それぐらい覚悟しろ」
「ダメです。ムリです」
そう言われてガチャ切りされる始末。
「くそ~っ。軍部大臣現役武官制が恨めしい。
これさえなければ、私が陸相を兼任するのにっ!」
いよいよ宇垣は最後の手段に出ます。
昭和天皇に「現役復帰」の優諚を出して頂こう。
これが出されれば、宇垣は現役武官に戻れるので、
陸相を兼任するコトができます。
さっそく湯浅内大臣を訪ねた宇垣。
しかし湯浅は落ち着いた声で言いました。
「取り次ぎはできません。お帰り下さい」
「な・・・なぜ?」
「そんなムリをしたら、また2.26のような事件が起こるかも・・・」
「それぐらい覚悟しているっ!」
「ダメです。危険な船に陛下をお乗せするワケにはいかない」
2.26事件によって、宮中勢力は明らかに低下していました。
もしこれが「牧野内大臣」や「斎藤内大臣」「鈴木侍従長」とかだったら、
陸軍に対抗するため、積極的に宇垣に協力しようとしたでしょう。
しかし。彼らはいずれも宮中から去り、
今やこんな危険を冒そうとする人はいません。
万策尽きた宇垣は、涙を流しながら昭和天皇に大命を拝辞。
こうして「宇垣内閣」は流産し、
2月2日。石原の思惑通り「林銑十郎」内閣が誕生したのでした。
石原莞爾は声を上げて大笑い。
「あっはっはー。これで私の構想を実現できるぞっ」
しかしすぐに石原は死ぬほど後悔するコトになります。
「林内閣」は政党とケンカして、わずか4ヶ月で退陣。
そして新しく誕生した「近衛内閣」は中国との全面戦争に突入し、
ズルズルと魔空空間に引きずり込まれます。
これは石原が最も恐れていた展開でした。
「失敗した。オレは宇垣首相の下で構想の実現に努めるべきだった。
少なくとも "中国とは戦わない" という点で、我々は一致していたのだから」
宇垣一成
民政党内閣(加藤・若槻・浜口)で陸相を務める。
大正時代には「宇垣軍縮」を断行。
有能で自信家で人気もあり、常に有力な「首相候補」であったが、
けっきょく一度も首相になれず「政界の惑星」と呼ばれた。
宇垣内閣が誕生していれば「支那事変」はなかった・・・との声は多い。]]>
荒木や真崎が陸軍大臣になってもよいのか
http://hosokawa18.exblog.jp/28541059/
2018-08-06T20:27:00+09:00
2018-08-10T00:30:44+09:00
2018-08-06T20:27:45+09:00
hosokawa18272
12
2.26事件で一大不祥事を起こしたのは「陸軍」。
本来ならば陸軍はボコボコに糾弾されて、大人しくなるのがスジなのに、
逆にこの事件を契機にして「政治的発言力」を増大させます。
いよいよ陸軍の台頭が始まるワケですが、
うーむ・・・なんでこんなコトになっちゃったんでしょうか?
理由の1つは、それまで陸軍を二分していた「皇道派」と「統制派」による内部抗争。
この抗争が「統制派」の勝利で完全決着したから。
これでスッキリした「陸軍」は、委縮するどころか
むしろ堂々と権力拡大を図ってきます。
そしてもう1つの大きな理由が「軍部大臣現役武官制」の復活。
「軍部大臣現役武官制」っていうのは、
内閣の重要閣僚である「陸相」と「海相」(軍部大臣)。
この2つのポストは必ず「現役」の武官が就かなければならない・・・ってルール。
これを使えばいわゆる陸軍の「必殺コンボ」が可能となります。
陸相辞任 → 後任立てず → 内閣総辞職
内閣を組閣するとき。
首相は誰でも好きな人を「大臣」に任命できます。
しかしこの制度が復活すると「陸相」と「海相」に関しては、
「現役」の軍人を任命しなければなりませんから、
軍の人事を担当する「陸軍省」と「海軍省」にお願いするのです。
「誰か適当な人を大臣に推薦して下さ~い」
このとき陸軍・海軍が「適当な人はいません」とか言って、
大臣を推薦しなければ、その時点で内閣はツブされます。
これがいわゆる陸軍の「必殺コンボ」。
もともとこの制度は「軍部の権力が強くなりすぎる」って理由で、
大正2年に一旦廃止されていました。
・・・それがなぜ?
よりにもよって陸軍が不祥事を起こした直後に復活しちゃったんでしょうか。
2.26事件は昭和天皇を激怒させました。
「陸軍の禍根を一掃せよ!」
陸軍はさっそく「粛軍人事」に取り組んだのですが、
このとき「事件の責任を取らせる」との名目で、
荒木貞夫・真崎甚三郎
彼ら「皇道派」のリーダー2人を「予備役」へ追放。(要するにクビ)
そして約3000人もの「皇道派」将校たちを粛清。
さらに陸軍は広田首相に言います。
「荒木・真崎は予備役に落として責任を取らせましたが、まだ十分ではありません。
彼らを復活させないためにも "軍部大臣現役武官制" が必要です。
荒木や真崎が陸軍大臣になってもよいのですか?」
2.26事件の責任を取って岡田内閣は総辞職。
当時の首相は「広田弘毅」に代わってました。
広田首相は外務省の官僚出身。
温厚な人でしたが、温厚すぎて迫力に欠けます。
「軍部大臣現役武官制を復活させましょう」
この重大な陸軍の要請に対して、広田首相は即答。
「うん。いいよー」
こんな重要な件にあっさりOKを出しちゃうなんて・・・。
こうして「軍部大臣現役武官制」は復活したのでした。
この辺の弱さが、後世の歴史家に「広田はダメだ~」と非難されちゃう所以ですが、
ま。この件に関しては「西園寺元老」も「議会」もあっさりと承認してるので、
広田首相ばかりを非難するのも可哀想な気がします。
そもそも。これまで「現役武官」以外の者が「陸海相」になったコトはありません。
別に「軍部大臣現役武官制」を復活させたからといって、
今までと変わりはなく、大した弊害はない・・・と思われていたのでした。
うん。甘すぎです。w
この後。陸軍はこのコンボを使って、実際に2度ほど内閣をツブしてます。(宇垣・米内)
広田首相は「議会」を軽視して「陸軍」に追随しすぎました。
議会は広田内閣に不満タラタラ。
昭和12年1月。帝国議会において「政友会」の浜田議員と寺内陸相が激しく口論。
「2.26以降。どうも軍部は政治に介入しすぎなんじゃないのか?」
「軍人に対して侮辱するような発言は控えていただきたい」
「私の言葉のどこが軍を侮辱したのか?」
「いや。そう聞こえたので・・・」
「私が軍を侮辱する発言をしたなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ!」
このいわゆる「割腹問答」で寺内陸相が激怒し、広田首相に衆院解散を要求。
広田首相がこの要求を却下すると、寺内陸相は辞表を提出。
閣内不一致となり、最後まで陸軍に振り回された「広田内閣」は総辞職したのでした。
広田弘毅
第32代首相。近衛内閣(1次)外相。
高いポストにありながら、何ら有効な手を打たず、
無気力で陸軍に追随し、全く決断力がなかったため、
当時の部下からも、後世の歴史家からもその評価はキビしい。
「これほどご都合主義で、無定見な人だとは思わなかった」]]>
戦前昭和史雑感 その2
http://hosokawa18.exblog.jp/28539204/
2018-08-05T21:49:00+09:00
2018-08-06T23:35:00+09:00
2018-08-05T21:49:22+09:00
hosokawa18272
未分類
かつてこのブログで、戦前昭和史における主要なトピックについての雑感を
「前半」として「2.26事件」までちょろっと書いたコトがありました。
それって 2012年5月 のコト。
はい。本当に・・・本当に今さらな話ですけど、
6年ぶりにつづきの「後半」について書いてみようかな・・・と。
ま。相変わらず適当にダラダラと自己満足ですけど。
昭和11年2月26日。
この日に起こった「2.26事件」は昭和史の大きなターニングポイントだと言われます。
その理由としては・・・。
まず「岡田内閣」が事件の責任を取って総辞職に追い込まれたコト。
事件からわずか6日前の2月20日。
「民政党」を与党としていた岡田内閣は、この日に行われた総選挙で大勝。
帝国議会をガッチリ押さえて、安定した政権運営が可能となっていました。
もし。事件が起こらずに「岡田内閣」と「民政党」が政権をキープしていたら、
不測な国際情勢に上手く対応できた可能性はあります。
二番目としては「陸軍」の政治的発言力が増大したコト。
本来ならば不祥事を起こした陸軍は「総スカン」を食らって、
大人しくなってしかるべきなのですが、
委縮するどころか、ますます増長して政治に口出ししてきます。
これは新首相となった「広田弘毅」の責任も大きいと思われます。
三番目は財政の健全化を進めていた「高橋蔵相」が殺され、
ストッパーを失って「軍事費」が一気に急増したコト。
この状況は「支那事変」が始まると、ますます止まらなくなり、
国家財政の 70% 以上が軍事費に回される・・・っていう異常事態となって、
完全に財政状況は詰んじゃいます。
四番目は「宮中勢力」が衰退したコト。
これまで元老・内大臣・侍従長などの「宮中勢力」は、多大な政治力を発揮。
陸海軍とも互角以上に対峙してきたのですが、
彼らは「君側の奸」として狙われるようになり、
2.26事件によって、斎藤内大臣は殺され、鈴木侍従長は重傷を負わされ、
牧野前内大臣も襲撃を食らっちゃいます。
こうして彼らは宮中から去り、代わって「湯浅倉平」が内大臣となるのですが、
2.26事件を目の当たりした「湯浅内大臣」はビビって、積極的に動こうとしなくなります。
2.26事件によってもたらされたこうした状況の変化。
もしこれがなければ、1年後に発生する「盧溝橋事件」を上手く処理できたかもしれず、
そうなってれば歴史は大きく変わってます。
・・・っていうか、そのとき首相が「近衛」だったコトがあまりにも不幸。
「近衛首相」さえ登場しなければ、とりあえずは何とかなったでしょうから、w
この人が出てくる余地を作っちゃったコト。
これが「2.26事件」の最大の負の遺産かもしれません。
昭和が始まってから「対米開戦」までわずか15年。
「前半」で書いた2.26事件までで約10年が経過してますから、
運命の真珠湾まであとわずか5年9ヶ月。
ただし。この5年9ヶ月はあまりにも話が濃すぎるので、
とても網羅できる内容じゃありません。
ですから本当に限られたトピックに絞って、適当にさらっと流す程度に。
話を分かりやすく(?)するため、
いくつかの「ポスト表」を載せておきます。
「昭和史」に関する本や史料を読んだりするとき、この表を参考にすれば便利ですよ~。w
まずはいわゆる「五相」と呼ばれる主要閣僚のポスト表から。
そして「2.26事件」以降。歴史の主役に躍り出る「陸軍」の主要ポスト。
次にこちらも欠かすコトができない「海軍」の主要ポストを。
で。最後に宮中・枢密院・政党の主要ポスト表です。
]]>
秋上は 富高らかに 相かして 33番
http://hosokawa18.exblog.jp/28527804/
2018-07-31T23:49:34+09:00
2018-07-31T23:49:34+09:00
2018-07-31T23:49:34+09:00
hosokawa18272
8
たとえば「武田家」が滅んだ原因って、かなりの部分は「信玄」にあるのに、
世間の評価は「信玄って戦国随一の名将だよね」ってベタ誉め。
対して「勝頼」は「猪突猛進のバカ武将」って扱い。
「あのバカっぷりじゃあ武田が滅んでも仕方ない」
・・・なんて言われますけど、さすがに可哀想すぎませんか?
むしろ「長篠」での敗戦後も関東に領土を広げてたりして、
かなりガンバってたと思います。
同じように「尼子晴久」も不当な評価を受けてる・・・と言わざるを得ません。
晴久は「謀略の天才」と呼ばれた祖父の「経久」とどうしても比べられちゃいます。
コーエーの「信長の野望シリーズ」でも
「経久」の能力値がトップクラスの高さを誇るのに対して、
晴久の能力値は平均値以下の無能な武将。
「嵐世記」の武将ファイルを見ても、晴久の評価はボロクソ。
・経久の足もとにも及ばない思慮の欠陥が致命的。
・戦略なき猪武者。
・新宮党を滅ぼしたせいで、自らの首を絞めた愚か者。
・急死したのはラッキー。もし天寿を全うしたとしても没落は避けられなかっただろう。
さすがにこれは可哀想すぎませんか。コー〇ーさん。
私は晴久の能力値って決して「経久」にヒケを取らない・・・いや。
経久の「負の遺産」を払拭した点を考えれば、
「むしろ晴久の方が能力は高いのでは?」
って思っちゃいます。
国人衆を掌握しきれてなかったり、
尼子本家に匹敵する「新宮党」の存在を認めていたり、
度重なる軍事行動が財政を圧迫したり・・・。
むしろこれらは経久の「負の遺産」と呼べるシロモノ。
晴久はこれらの諸問題の払拭に取り組んでます。
新宮党を粛清して、中央集権化を図ったり、
不穏な状態だった国人たちと和解したり、
石見銀山を奪取・開発して財政の健全化を図ったり・・・。
そして何より「尼子家」の最大版図は「晴久」の時代に実現しており、
なぜ。晴久がこんなに不当な評価を受けてしまうのか?
私はむしろ疑問だったりするのです。カッコ良いじゃないですか。晴久。
とくに「経久時代」には不和だった国人たちと和解して、
その勢力を次々に取り込んでいった手腕は見事。
秋上氏・富氏・財氏(たから)という国人たちとの和解が成立したときは、
喜んでこんな和歌を詠んでます。
秋上は 富高らかに 相かして 思うことなく 長生きせん
尼子晴久 33番
<訳>
秋上氏・富氏・財氏(たから)と和解できて良かったよー。
これで争いの心配もなくなって、みんな長生きできるだろう。
こんな和歌は国人との和解交渉に苦労した「晴久」じゃないと詠めません。
なのに。なぜかこの和歌を詠んだのは「経久」だとされ、
しかも「さすが経久は人徳者だなー」って賞賛されてきたみたい。
こういうエピソードをみると、
人物の評価ってどうしてもイメージが先行しちゃうんだなー
・・・って改めて思いますね。
晴久さんに関しては、ぜひ再評価をしてあげて欲しいものです。
]]>
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